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私は親に反抗しました。

そして、大人になって反省して悟りました。親に反抗するのではなかったと…

親に反抗した人も反抗していない人も必見!

そう、おなじはんこう(反抗)でもこちらは、はんこう(藩校)


藩校(はんこう)とは、江戸時代、諸藩(今でいう各都道府県)が藩士(武士)の子弟を教育する為に設立した学校です。

内容や規模は様々ですが、藩士の子弟は皆強制的に入学させ、庶民の子弟は基本的に入学でませんでした。

藩校では「文武兼備」を掲げ、7~8歳で入学して第一に文を習い、後に武芸を学び、14~15歳から20歳くらいで卒業しました。

教育内容は、四書五経の素読と習字を中心として、江戸後期には蘭学や、武芸として剣術・槍術・柔術・射術・砲術・馬術などが教授されました。

※列挙しました各藩校の歴史は、Wekipedia等より引用しました。訂正などがありましたらご連絡いただければ幸いです。


東北
会津藩・日新館(1664年)→現福島県立会津高等学校

概要
1798年(寛政10年)、会津藩家老田中玄宰の進言により計画される。 1803年(享和3年)、会津藩の御用商人であった須田新九郎が新築経費を寄付したため、会津若松城の西隣に日新館の校舎が完成。東西約120間、南北おそよ60間の敷地に水練場や天文台までをも備えた全国有数の藩校となった。

当時の会津藩の上級藩士の子弟は10歳になると日新館に入学した。15歳までは素読所(小学)に属し、礼法、書学、武術などを学んだ。素読所を修了した者で成績優秀者は講釈所(大学)への入学が認められ、そこでも優秀な者には江戸や他藩への遊学が許された。全国に数ある藩校の中でも屈指の教育機関であると言える。

1868年(慶応4年)、戊辰戦争により校舎は焼失。現存するのは会津若松城趾西側に残る天文台跡のみ。

會津藩校日新館
復元された日本最古とされる水練場1987年(昭和62年)に、會津藩校日新館として、完全復元された施設が会津若松市河東町にある。この施設は、博物館、研修・宿泊施設、映画撮影所などを兼ねており各種の武道団体も頻繁に練習や合宿に利用されている。

米沢藩・興譲館(1697年)→現山形県立米沢興譲館高等学校

仙台藩・明倫養賢堂(1736年)→現東北大学医学部
沿革
1736年(元文元年) 5代目藩主・伊達吉村のとき、藩の子弟を教育するために仙台城下の細横丁北三番丁の武家屋敷に開設。
1760年(宝暦10年)7月 医学教育を開始。
1761年(宝暦11年)3月 勾当台通り北一番丁(現在の宮城県庁)に移転。
1772年(安永元年) 養賢堂に改称。
1817年(文化14年)の頃、校舎の大幅な拡張工事が行われた。また、養賢堂から仙台藩医学校を分離して、百騎丁(現東二番丁)に設置した。
1822年(文政5) 仙台藩学校蘭科を開設し、わが国初の西洋医学講座を実施した[1]。
1871年(明治4年)、廃藩置県により、仙台藩医学校施薬所(仙台医学館とも呼ばれた)が廃止された。
後身
東北大学
1871年(明治4年)の仙台医学館廃止の翌1872年、仙台藩医学校出身者が南町に私立仙台共立社病院を開設した。これが改組・改称を繰り返して、医学教育部門が1912年に東北帝国大学医学専門部として包摂された。現在は、東北大学医学部となっている。他方、病院部門は、現在東北大学病院となっている[2]。
仙台一高
1871年(明治4年)、仙台医学館跡に英語専門学校として辛未館が設置された。これが改組・改称を繰り返して東華学校となり、1892年4月1日に宮城県尋常中学校となって、現在の宮城県仙台第一高等学校に繋がっている。

建物のその後
養賢堂は、幕末には額兵隊の宿舎としても使用された。額兵隊隊長の星恂太郎も養賢堂の出身である。一説には、新撰組の山南敬助もここで学んでいたというが、名簿に名は見当たらないらしい。

戊辰戦争を期に賊軍となった仙台藩において、養賢堂は明治政府に接収されて宮城県庁として使用された。正門だけは移され、現在では泰心院の山門として残っている。その後、隣接地に新しく宮城県庁舎が出来、養賢堂の県庁舎としての役割は終わった[3]。建物は、第二次世界大戦における仙台空襲で焼失した[4][5]。

正門
文化十四年(1817年)、講堂と共に完成。 明治維新後、養賢堂が新県庁舎に使用され、洋風の門が新たに建設されるのに伴い、勾当台にあった養賢堂正門は、仙台市若林区南鍛治町に移された。養賢堂の遺構として現存する唯一のものである。
造りは、一間一戸の四脚門であり、屋根は切妻造、棧瓦葺であり、また伊達家の家紋「三引両」と「九曜」を配した漆喰塗の棟や細部の装飾などで重厚な外観となっているのが特徴である。

学問
対象は八歳からで、三度落第したら退学という決まりになっていた。主に、孝経、小学本註、四書集註などを学んでいた。その後藩内各所にも学問所等が開設され、仙台藩は諸藩と比べても極めて高い教育水準を持つこととなった。林子平、高野長英などはここの出身である。仙台藩には、彼らに加えて建部清庵、大槻玄沢など蘭学者が多かったことから、ある時期以降は蘭学も教えられるようになった。大槻平泉が学頭となったとき、大胆な改革が行われ、以後息子の大槻習斎や親族の大槻磐渓(漢学者)など、大槻氏から多くの学頭が輩出されることとなる。

上記以外の出身者・関係者
大槻文彦(養賢堂で学んだ国語学者。日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者。大槻玄沢の孫で、大槻磐渓の息子)
千葉卓三郎(五日市憲法の起草者。養賢堂で学んだ)
松川敏胤(明治、大正期の陸軍軍人、日露戦争の主任参謀)

白河藩・(1校目)立教館(1791年~1823年)
白河藩・(2校目)修道館(1825年~1866年)

庄内藩・致道館(1805年)
沿革
表御門(おもてごもん)文化2年(1805年)、庄内藩七代目藩主・酒井忠徳によって創設された学問所に始まる。当時は現在の鶴岡市日吉町にあったが、文化13年(1816年)に八代目藩主の酒井忠器によって鶴ヶ岡城三の丸曲輪内に移された。明治6年(1873年)廃校。
東北地方に現存する唯一の藩校建造物で、孔子を祀る聖廟、講堂、御入間、表御門などの建物とその敷地一帯は国の史跡に指定されている。昭和40年(1965年)から復元が始まり、昭和47年(1972年)から一般公開されている。

関連施設
致道博物館
致道館と同様、鶴ヶ岡城の三の丸曲輪内にある。旧西田川郡役所(重要文化財)、旧鶴岡警察署庁舎(県指定の有形文化財)、旧渋谷家住宅(重要文化財)等の建築物や、致道館で使用されていた典籍類、木製の生活用具等が保存されている。
聖廟舊趾碑(せいびょうきゅうしひ)
酒井忠徳によって創設された学問所の移転跡地に建てられた碑が残っている。


関東
古河藩・盈科堂(1762年)→一部現古河市立古河第一小学校(1899年に名称を借り受けて私立盈科中学校が設立されたが、1944年に廃校となった。)
伊勢崎藩・学習堂(1775年)
佐倉藩・学問所(1792年)→温故堂(1805年)→現千葉県立佐倉高等学校
土浦藩・郁文館(1799年8月)→一部現茨城県立土浦第一高等学校
小田原藩・集成館(1822年)→現神奈川県立小田原高等学校
関宿藩・教倫館(1824年)→名称を借り受けて教倫館小学校→現野田市立関宿小学校
忍藩・進修館(1824年)→名称を借り受けて埼玉県立進修館高等学校

水戸藩・弘道館(1841年)→一部現茨城中学校・茨城高等学校
学問:水戸学
教科書:四書五経、
著名人:安島帯刀、藤田東湖、徳川斉昭、武田耕雲斎、会澤正志斎

沿革
創立は、1841年(天保12年)8月。第9代水戸藩主の徳川斉昭によって水戸城三の丸内に作られた。維新回天の先導力になった。建造には腹心の戸田蓬軒が務めた。また、経営にあたる学校奉行には、蓬軒の実弟 安島帯刀が任命された。文武両道を教育方針とし、馬術や剣道やという武道のほかにも、広く諸科学、諸学問が教育・研究された。

学問の教育・研究としては、当時広く行われていた人文科学、社会科学のほかにも、医学や天文学をはじめとする自然科学についても行われていた。また、第2代水戸藩主の徳川光圀が編纂を始めた大日本史の影響を受けた水戸学の舞台ともなった。当時の藩校としては規模が大きく、また水戸藩も財政が潤っていたとはいえなかったことから、当時の水戸藩の教育重視がうかがえるといわれている。しばしば現代の総合大学に例えられるが、学問は一生行うものであるという考え方に基いて特に卒業の概念を設けず、若者も老人も同じ場で学んだといわれている。


明治維新の際、水戸藩では改革派(天狗党)と保守派(諸生党)が激しく争い、弘道館もその舞台となった。1868年には会津戦争で敗走した諸生党が水戸に舞い戻り、弘道館に立てこもる事態となり多くの建物が銃砲撃により焼失した(弘道館戦争)。1872年(明治5年)12月8日に閉鎖され、その後は太政官布告により公園とされた。

弘道館が有していた蔵書の多くは国有とされ、後に設立された官立の旧制水戸高等学校が引き継いだが、1945年(昭和20年)8月1日から2日未明にかけての水戸空襲により国有化された蔵書は焼失した。そのほかの蔵書については、弘道館の伝統を引き継ぐために関係者によって作られた自彊舎に引き継がれ、その後は、弘道学舎、水戸塾、水戸学院、茨城中学校・茨城高等学校と続いている。現在、約1万冊程度の蔵書が現存し、茨城県立歴史館が委託などで管理を行っている。

文学作品のなかの弘道館
森鴎外『伊沢蘭軒』
「花亭の語は詳(つまびらか)でなかつた。由緒書に徴するに、『文政二卯四月十七日五人扶持被下置、折々弘道館へ出席致世話候様』と云つてある。」
正岡子規『墨汁一滴』
「その時の有様をいへば、不折氏は先づ四、五枚の下画を示されたるを見るに水戸弘道館等の画にて二寸位の小き物なれど筆力勁健にして凡ならざる所あり」
島崎藤村『夜明け前・第一部上』
「御三家の一つと言われるほどの親藩でありながら、大義名分を明らかにした点で。『常陸帯(ひたちおび)』を書き『回天詩史(かいてんしし)』を書いた藤田東湖はこの水戸をささえる主要な人物の一人(ひとり)として、少年時代の半蔵の目にも映じたのである。」
島崎藤村『夜明け前・第一部下』
「しかし、慶喜も水戸の御隠居の子である。弘道館の碑に尊王の志をのこした烈公の血はこの人の内にも流れていた。」

甲信越
松代藩・(1校目)文学館(1758年)
松代藩・(2校目)文武学校(1855年)→国指定史跡 旧文武学校
新発田藩・道学堂(1772年)
須坂藩・(1校目)教倫舎(1781年)
須坂藩・(2校目)立成館(1804年)
富山藩・広徳館(1773年)

金沢藩・明倫堂(1792年)→現金沢大学
加賀金沢藩の明倫堂
11代藩主・前田治脩によって寛政4年(1792年)設立。初代学頭は新井白蛾。当初は兼六園の南西部に建てられたが、居館の建立のため文政5年(1822年)に仙石町(現在の金沢近代文学館と中央公園の一部)に移転した。南西から北東方向へ廊下が続いていた経武館が武を重んじたのに対し、明倫堂は儒学等の学問を教える学校となっていた。教員は読師、助教、教授という身分に分かれ、生徒は平士以上の子弟のほか、下級武士や陪臣が多く、生徒数は200~300名でほぼ一定していた。なお設立の目的の一つに身分を区別しない四民教導があったが、武士の子弟以外への開講は非常に限定的だった。授業内容が和学、天文学、本草学など多岐にわたる事が特徴であったが、朱子学を尊重した漢字が多くを占めていた。

洋学の導入にともない1870年(明治3年)10月に閉校し、翌月に皇学と漢学を教える中学西校が明倫堂と経武館の校舎で開校した。翌年には洋学中心だった中学東校と合併して金沢中学校となったが、翌年四月にこれも閉校している。後に旧制第四高等学校の一部となった。なお、石川県立野々市明倫高等学校の校名は、この『明倫堂』にちなんでつけられた。
松本藩・崇教館(1793年)→重要文化財旧開智学校、一部現長野県松本深志高等学校
飯田藩・読書場(1795年)
小諸藩・明倫堂(1802年)
諏訪藩・稽古所→長善館(1803年)
上田藩・明倫堂(1813年)

福井藩・明道館(1855年)→現福井県立藤島高等学校
明道館(めいどうかん)は、江戸時代後期の安政2年(1855年)に福井藩主・松平春嶽が設立した藩校。橋本左内が学監心得となった。明治2年に移転し「明新館」と改称。後の旧制福井中学校、現在の福井県立藤島高等学校へとつながる。 由利公正、関義臣、日下部太郎などを輩出。理科を教えたウィリアム・グリフィス、熊本から請われた横井小楠なども居た。

飯山藩・長道館(1857年)
高遠藩・進徳館(1860年)
岩村田藩・達道館(1864年)
竜岡藩・尚友館(1868年)

東海

吉田藩(三河国)・時習館(1752年)→名称を借り受けて愛知県立時習館高等学校、この分校から愛知県立豊橋南高等学校
沿革
1752年(宝暦2年) 藩校時習館、藩主松平信復により、城内の八丁小路(現、豊橋市八町通)に設立。
1806年(文化3年) 「時習館規条」制定。
1872年(明治5年) 藩校時習館廃止。
1893年(明治26年) 私立補習学校時習館(愛知県立時習館高等学校の前身)設立。藩校時習館の名を借りて称した。
1900年(明治33年) 愛知第四中学校(ナンバースクール)へ改名。
1972年(昭和47年) 上記愛知県立時習館高等学校の2つの分校を統合し、愛知県立豊橋南高等学校設立。

藩校名の由来
名は、孔子の『論語』の中の「学びて時にこれを習う(学而時習之)」からである。 三河吉田藩の上級家臣である北原忠兵衛忠光が藩校名を揮毫し、扁額とした。
教授
三浦竹渓(荻生徂徠の弟子)、西岡天津、中山美石、太田錦城、太田晴軒(錦城の三男)、山本謙斎、彦坂範善 など。
松平信明が藩主の時、太田錦城を教授として招いたが、実際に錦城が吉田に赴任したのは信順の代になってからであった。

尾張藩・明倫堂(1783年)→現愛知県立明和高等学校
尾州尾張藩の明倫堂
寛延2年(1749年)創立。天明2年(1782年)に徳川宗睦が再興し、天明3年(1783年)に開校。細井平洲が初代督学(校長)となり、岡田新川、石川香山、冢田大峰、細野要斎ら儒学者が後を継いだ。
藩士の子弟だけでなく、農民や町人にも儒学や国学を教えた。初期の生徒数は約50名だったが、後に約500名まで増加している。天明5年(1785年)に聖堂が設けられ、天明7年(1787年)から復刻を行なった『群書治要』などの漢籍は明倫堂版と呼ばれ、木活字版が多い。 1871年(明治4年)に廃校となり、1875年(明治8年)に跡地に名古屋城内から名古屋東照宮が移された。
のち、1899年明倫中学校として復活。愛知県立明和高等学校として現在に至る。

田原藩・成章館(1810年)→愛知県立成章高等学校
沿革
1810年(文化7年)田原藩主三宅康和藩校を設立。
1811年 藩校を成章館と命名。
1871年 廃藩置県に伴い一度廃校となる。
1901年(明治34年)成章館を再興。 ← この年を現在の学校創立年とする。
1919年 渥美郡立成章中学校創設
1922年 郡制廃止により成章中学校を県立移管。
1948年(昭和23年)に学制改革により、旧制成章中学校と旧制田原高等女学校を統合し、愛知県立成章高等学校となる。
2001年(平成13年)学校創立100周年記念式典を挙行。

田中藩・日知館(1837年)
苗木藩・日新館(1869年)

岩村藩・知新館(1702年) 
学問:朱子学
教科書:孝経・小学・四書(大学・論語・孟子・中庸)・五経(易・書・詩・礼・春秋)・左氏伝・史記・国語・文章規範など
著名人:佐藤周軒・林述斎・佐藤一斎など

沿革
 岩村藩は三万石の小藩でありながら、文教藩として全国に名を馳せた。元禄15年(1702年)大給分家の松平乗紀(のりただ)が信州小諸より岩村へ転封するや、城下に文武所を建設し、後藤松軒の門人の佐藤勘平(周軒)を招いて藩士の子弟を教育した。美濃国では最初であり、全国的に見ても15番目以内に入る歴史ある藩学である。文武所は後に、論語の「温故而知新」(ふるきをたずねて新しきを知る)から「知新館」と改めたが、学舎が火災に遭ったため、新市場から現在の恵那南高校(前岩村高校)岩村校舎の敷地内へ移転し、以後、廃藩置県まで藩士の子弟教育を支えてきた。藩校は廃止されたが、その施設や精神は受け継がれ、現在の岩邑(いわむら)小学校の母体となった。

「知新館」へは藩士の子弟はすべて、数え年八歳で入学し、二十歳で退学が許された。

教授内容
授業は午前8時から午後4時までで、学科は和学・漢学は朱子学、算法は関流、習礼は小笠原流、兵学は山鹿流、弓術は大和流、馬術は大坪流、槍術は無辺流、剣術は一刀流、砲術は久我流、柔術は制剛流などであった。

使用した教科書は、孝経・小学・四書(大学・論語・孟子・中庸)・五経(易・書・詩・礼・春秋)・左氏伝・史記・国語・文章規範などであった。

授業方法は、生徒の長幼優劣に応じた個別指導で、孝経から五経までは素読を中心とし、習熟するにつれ教授の講義、生徒同士の輪読、さらに和漢・歴史・諸子百家などの輪読・質問・講義まで進む者もいた。

試験は春と秋の二回行われ、藩主と家老の前で、教頭が生徒の学力を勘案し、講義・訓解・作文等により実施された。

文武両道を兼修させる規則であったが、実際は四書を修得した者は、武術の普通免許を取った者と同等に扱われることになっており、学問の方を重んじていた。

また、成績優秀者には臨時の賞与のほか引米等の禄税の免除や奨励のため増加米が与えられたり、江戸や長崎などへの遊学が藩費で許可された。

出身者
藩校初代儒員の佐藤勘平に学んだ二代藩主乗賢(のりかた)は名君の誉れ高く、幕府の老中に抜擢されたが、後にも林述斎(三代藩主乗蘊(のりもり)の三男。林家の養子になり、八代目大学頭を名乗る)や、幕府の学問所「昌平坂学問所」や私塾で全国から集まる俊英を教育し、著書「言志四録」で明治維新を成し遂げた多くの志士を鼓舞した佐藤一斎(佐藤勘平の曾孫)などを輩出し、文教藩岩村の名をほしいままにした。

なお、現在「知新館」の正門と釈奠の間(岐阜県指定文化財)は、藩主邸跡に移され、毎年四月には釈奠の儀(孔子祭)が執り行われている。
 
近畿

紀州藩・講釈所(1713年)→学習館(1791年)→和歌山大学教育学部
沿革
[編集] 紀州藩での儒学教育の開始
徳川頼宣が登用した那波活所により、寛永12年(1635年)以降には紀州藩での家臣に対する儒学教育が始まっている。しかし、好学者が儒者の家に出向いて教えを乞うという形式であった。

講堂
正徳3年(1713年)、徳川吉宗が一般的な儒学振興のために湊に講堂を開設した。仁斎学者・蔭山東門や朱子学者・祇園南海が講義を行い、庶民を含めて170~180人が聴衆として訪れたという。『紀州政事草』や『紀州政事鏡』も講堂について記しているが、一般的に偽書とされ内容に信頼性がないため、詳細は不明である。その後、講堂は荒廃したという。

城内・評定所での講釈
安永5年(1776年)、徳川治貞は藩政改革に際し、家臣団に思想的統制を行うために和歌山城内と評定所での学問講釈を触れ出し、仁斎学者・伊藤蘭嵎や朱子学者・祇園餐霞などの講釈日割を定めた。学問に精進した者には褒美が下されるようになっていたが、天明の大飢饉により治貞の藩政改革は挫折し、講堂の復興はならなかった。

学習館
寛政2年(1790年)、徳川治寶は藩政改革の一環として、湊の講堂の増改築に着手し、翌寛政3年(1791年)に完成し学習館に改名した。試験はこの頃から始まったらしいが、詳細は不明である。
寛政4年(1792年)、国学者・本居宣長が登用され、以後も宣長の子孫には禄が与えられて講釈が行われた。しかし、それは御前講義にすぎなかった。
寛政5年(1793年)、学習館規則を定め、藩学を朱子学を含んだ広い定義の宋学に決定した。実際、学習館には力のある朱子学者は呼ばれず、徂徠学者・菊池衝岳や折衷学者・山本東籬、折衷学者・仁井田南陽らが重用された。同年、江戸に明教館が開設された。
享和3年(1803年)、学習館の試験規則を改定し、学問御試規則を制定した。無役の下級家臣を成績次第で役付にすることなどが定められており、家臣に対する儒学奨励と思想統制が目的であった。
文化元年(1804年)、伊勢国松坂に松坂学問所を開設した。

学習館文武場
安政3年(1856年)、海防強化のために和歌山城の南隣に岡山文武場が開設された。

慶応2年(1866年)、徳川茂承が行った軍制改革に伴い藩校改革も行われ、学習館を岡山文武場へ移転させて全体を学習館文武場と称した。修業年齢を従来の30歳から50歳へ引き上げるなどを行ったため、200~600人だった生徒数が数倍になったという。また、特筆すべき点は漢文の素読試験に限り、百姓や町人も参加できるようになったことである。

彦根藩・稽古館(1799年7月)→弘道館(1830年)→滋賀県立彦根東高等学校
中国
岡山藩・花畠教場(1641年)→一部が現岡山県立岡山朝日高等学校・現岡山大学教育学部

長州藩・明倫館:萩(1719年)→現明倫小学校・山口県立萩高等学校
概要
1718年(享保3年)、萩藩6代藩主毛利吉元が萩城三の丸追廻し筋に創建(敷地940坪)。1849年(嘉永2年)には、14代藩主毛利敬親が藩政改革に伴い萩城下江向へ移転(敷地15,184坪。建物総坪数11,328坪、練兵場3,020坪)。
1863年(文久3年)、藩庁の山口移転により、上田鳳陽が1815年(文化12年)に山口市中河原に開設していた私塾山口講堂(後に山口講習堂)を山口明倫館と改称、藩校に改め、萩・山口の両明倫館が並立することとなる。

萩明倫館
萩明倫館は、現在、萩市立明倫小学校の敷地内となっており、有備館、水練池、聖賢堂などの遺構が残っている。国指定史跡(1919年(昭和4年)12月7日指定)を受けている。

小山ゆうのデビュー作『おれは直角』は、萩明倫館が舞台である。

山口明倫館
山口明倫館は、山口講習堂時代の1861年(文久元年)に、山口市内中心部の亀山東麓にあるお堀に囲まれた広大な敷地(亀山校地)に移転した。

藩庁移転後山口藩・山口明倫館(1863年)→官立山口高等中学校→旧旧官立山口高等学校→旧制官立山口高等商業学校→旧制山口経済専門学校→現山口大学経済学部、一部は現山口県立山口高等学校

広島藩・講学所(1725年)→現修道中学校・高等学校
鳥取藩・尚徳館(1757年)→現鳥取県立鳥取西高等学校
赤穂藩・博文館(1777年)
徳山藩・鳴鳳館(1785年)
長府藩・敬業館(1792年)→現山口県立豊浦高等学校

津和野藩・養老館(1886年)
概要
1786年(天明6年)、津和野藩8代藩主亀井矩賢が森村ノ内字下中島に設置。 当時は儒学(教授:市川弁五郎、山口賢藏、增(塙?)野禮藏。助教授:板村基一、山口重三郎、林一見等)が中心。兵法、弓術(伴派弓術・竹林派弓術)馬術(大坪流馬術・多田流一騎働)、剣術(一刀流剣術・挽田流剣術)、槍術(刃心流槍術・夢相流槍術)、砲術(浅木流砲術)等はそれぞれ別の教場があったという
安政年間(大火の後?)、田村の内殿町へ各練武場とあわせて新築する。改名時期はこの頃と思われる。

休業定日 二月丁祭南日(前日・当日)、三月上巳御霊社禮祭両日(二十六日・二十七日)、四月御帰城当日、五月端午、六月御發駕当日、祗園海両日(七日・十四日)七月七夕、盆会(十三日・十四日・十五日)、八月丁祭両日(前日・当日)、御霊社禮祭両日(二十六日・二十七日)、九月重陽、十月玄猪、十一月冬至、十二月節分(二十一日~正月十日)

塾法(安政四年と仮定す)

塾中心得書
正月元日二日三日但夜九ッ時迄  二月丁祭当日但夜五ッ時迄  三月上巳但夜九ッ時迄御霊社禮祭両日(二十六日・二十七日)但夜五ッ時迄  四月御帰城当日但夜五ッ時迄  五月端午但夜九ッ時迄  六月御發駕当日、祗園海両日(七日・十四日)但夜五ッ時迄  七月七夕、盆会(十三日・十四日・十五日)但夜九ッ時迄  八月丁祭当日、御霊社禮祭両日(二十六日・二十七日)但夜五ッ時迄  九月重陽但夜九ッ時迄  十月玄猪但夜五ッ時迄  十一月冬至但夜五ッ時迄  十二月二十八日晦日但夜九ッ時迄  毎月朔日但夜五ッ時迄  毎月十度但晩飯前ヨリ夜六ッ時迄
右ハ御定ノ他出致シ苦シカラサル事
一、他出シ度者ハ当番ノ教官ヘ相届ラルヘシ但拜前ヨリ他出致度者ハゼンジツ相届ラル可シ尤疾病事故ニテ夜中急ニ他出致度者ハ其由塾長ヘ申置翌朝塾長ヨリ届ケラル可シ 和学、医学、兵学、算法、習礼等定日ありてこれを教授す。
弓馬砲術柔術も同じ
槍剣は、日々教場を開く。
春秋両度藩主の臨場あり、試験は文学と武術と程度の比例なし、生徒賞品中免は金百疋、皆伝は上下を賜う。その他掲ぐ可きなし。
訓條などは前達の部に掲ぐ。

備後福山藩・弘道館(1786年)→誠之館(1854年)→現広島県立福山誠之館高等学校
林田藩・敬業館(1794年)
安志藩・明倫堂(1839年)
吉川藩・養老館(1847年)→現山口県立岩国高等学校
四国
大洲藩・明倫堂(1800年)
小松藩・養生館(1802年)→現愛媛県立小松高等学校
伊予松山藩・明教館(1828年)→現愛媛県立松山東高等学校
土佐藩・文武館→敬止館→行余館(1855年)
九州
大村藩・五教館(1670年)→現長崎県立大村高等学校
岡藩・修道館(1726年)

熊本藩・藩校時習館(1755年)→流れは現熊本県立済々黌高等学校、熊本県立熊本高等学校
藩校時習館(はんこう じしゅうかん)、九州熊本藩(現、熊本県熊本市)第8代藩主細川重賢(しげかた)が宝暦5年(1755年)に設立した文武両道の藩校。明治3年(1870年)に廃校になった。

細川内膳家の長岡忠英を初代総教(総長)に、秋山玉山を教授に迎えて開校し、115年続いた全国に名を知られた藩校のひとつである。熊本藩士族の文武両道、質実剛健の気風を育てたとされる。幕末期には横井小楠が時習館に学び、塾頭も勤めた(小楠は後に時習館を脱退する)。

熊本藩・再春館(1756年)→医薬系で熊本大学医学部の前身
小倉藩・思永斎(1758年)→思永館→名称を借り受けて現北九州市立思永中学校、一部は現福岡県立小倉高等学校(本校は豊津高校)
小倉落城後豊津藩・香春思永館(1867年)→育徳館→現福岡県立育徳館高等学校
府内藩・遊焉館(1771年)

薩摩藩・造士館(1773年)→現鹿児島県立甲南高等学校、名称を借り受けて七高造士館→現鹿児島大学法文学部
沿革
創設
鹿児島藩には早くから藩校を作る計画があったが、予算不足などの理由で長らく放置されていた。8代藩主・島津重豪はこのような実状に危惧を抱き、安永2年(1773年)、鹿児島城二ノ丸御門前に約3400坪の敷地を確保し、儒教の聖堂である「宣成殿」、講堂・学寮・文庫などを建設した。これが「造士館」の始まりである。初代館長には重豪気に入りの学者であった山本正誼が任命された。

隣接する4139坪の敷地には弓道場・剣道や柔術などの道場が設けられ、こちらは初め「稽古所」、翌年「演武館」と命名された。剣術及び居合の師範に東郷実昉や大山角四郎貞政、田中喜助、和田源太兵衛助員、木藤太郎右衛門、鈴木弥藤次が選ばれた。また、槍術師範には天心鏡智流の梅田九左衛門がなった。

モデルになったのは江戸幕府の湯島聖堂、昌平坂学問所である。

施設の拡充
安永3年(1774年)、重豪は漢方を学習する「医学院」を増設する。同8年(1779年)には吉野村(現鹿児島市吉野町)に「吉野薬園」を建設。同年、鹿児島城の東南に「明時館」を建設し、天文学を研究させた。

近思録崩れの影
後述するように儒教に基づいた教育が行われていたが、次第に藩政の対立が儒教の教派の対立となって現れるようになり、文化4年には近思録党側の立場に立つ学者・木藤武清が山本正誼に取って代わる事態となり、造士館は大混乱に陥った。その後、緊縮財政の影響もあり、造士館での教育は停滞した。

島津斉彬の改革
嘉永4年(1851年)、11代藩主となった島津斉彬は停滞していた造士館の改革に乗り出した。従来の儒教と武芸教育にくわえて西洋の実学を学習の中心においたのである。教育方針は「修身・斉家・治国・平天下の道理を究め、日本国の本義を明らかにし、国威を海外に発揚すること」(安政4年(1857年)告諭)であった。緊迫する情勢に備えて、現実に対応できる素養のある人材の育成を急いだのである。

桜島に造船所、仙巌園に西洋科学技術研究所及び製作所として集成館を建設、火薬、ガラス、塩酸などの試作を行い、電信線を開通させ、大砲・軍艦の建造など多大の成果を上げた。斉彬の死後、一時衰えたが、島津久光が藩政の実権を握ると、教育内容の充実が再開され、万延元年(1860年)には中国語研究のための「達士館」、元治元年(1864年)には西洋式軍学や技術を専門に学ぶ「開成所」が設けられ、大勢の軍事技術者や英学者の養成に貢献した。

終焉
明治2年(1869年)、学制を改め「国学」「漢学」「洋学」の三局体制となったが、翌明治3年にはこの三局が統合され「本学校」と改名した。更に小学校を併設し、そちらでは和漢洋の学問の他に習字や筆算など基本的な知識を教えていた。しかし、明治4年(1871年)の廃藩置県により本学校は廃止となり、実質的に造士館は廃校となった。

後裔
鹿児島からの高等教育機関の消滅を惜しむ人たちの支援により、明治11年(1878年)7月、「県立鹿児島中学」(正則と変則の二科編制)として再開される。後にこれが、明治14年(1881年)設立の公立鹿児島学校と発展統合し、明治17年(1884年)「鹿児島県立中学造士館」となる。そして明治20年(1887年)、国へ移管されて高等中学校「鹿児島高等中学造士館」(高等科、予科の二科編制)と改称、明治29年(1896年)に再び県へ移管され、高等科廃止と予科生をもって「鹿児島県立尋常中学造士館」(本科、予科、補充科の三科編制)と改称、明治32年には「鹿児島県中学造士館」と改称。明治34年(1901年)に「造士館」の名称と校舎・校具は新規設立の官立「第七高等学校造士館」のものとなり、生徒三学年以下と蔵書等をもって鹿児島県第一中学校分校(現・鹿児島県立甲南高等学校)と改称した。現在、造士館の後裔として現在の鹿児島大学と鹿児島県立甲南高等学校の2校があげられるのはこの経緯による。
現在、藩政時代の造士館の建物などは全く残っていない。

カリキュラム
入学は8歳。21~22歳で卒業することになっていた。所定の日課割りによって和学、漢学、書道の三科を学び、演武館で武芸を鍛錬した。

教科書には『孝経』、四書五経その他和漢の史書が基本として使用されていた。これらを素読、講義、温習の方法で学習した。

基本的に儒教に基づく教育が行われ、藩士子弟の育成を目指していた。
山崎闇斎とのつながり
天保13年(1842年)、『孝経』『四書集注』『五経』などの儒教テキストを出版したが、それは山崎闇斎流の返り点が打たれた物であった。藩校の大半が儒教の中でも朱子学を奉じており、造士館でも同様であったが、特に闇斎派朱子学の教育を徹底させていたことが伺える。これは明治維新後、鹿児島県が最も廃仏毀釈の厳しかった県となったことなどに影響を落としていると考えられる。

出身者
西郷隆盛
大久保利通 - 初代内務卿
黒田清隆 - 陸軍軍人、第2代内閣総理大臣
松方正義 - 第4代及び第6代内閣総理大臣
山本権兵衛 - 海軍大将、第16・第22代内閣総理大臣
森有礼 - 第1次伊藤、黒田各内閣の文部大臣
川村純義 - 海軍大将
大山巌 - 陸軍大臣、元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵(なお、曾祖父の大山宗之丞は側用人の仕事の関係で出入りしていた。)
東郷平八郎 - 元帥海軍大将従一位大勲位功一級侯爵
川路利良 - 警察官僚(警視庁初代大警視、日本警察の父)
重野安繹 - 漢学者、歴史家。『皇朝世鑑』著者。『大日本編年史』編纂。造士館講師出身。
伊地知正治 - 幕末~明治初期の軍学者。戊辰戦争時に新政府側で貢献。西南戦争後に下野、帰郷。造士館講師出身。

秋月藩・稽古館(1775年)
佐伯藩・四教堂(1777年)

高鍋藩・明倫堂(1778年)
日向高鍋藩の明倫堂
7代藩主・秋月種茂が儒官・千手興欽の進言に基づき安永7年2月24日(1778年)に設立した。藩士のみならず農民等の一般庶民にも入学させたのを最大の特徴とする。5代藩主・秋月種弘の時に学問・武芸の稽古所があった高鍋城三の丸(現在は宮崎県立高鍋農業高等学校の一部)に位置し、従来からの武芸稽古所と併設して藩士の子弟に文武を兼学させた。
小学と大学に分れ、それぞれを行習斎、著察斎と呼んでいた。行習斎には8~9歳で入学し、孝経、大学、論語などの素読や、孝経、小学内外篇の講義、礼式、書道、数学を学んだ。行習斎を修了して進む著察斎では各自で講読または会読を行ない、教授への質疑や典籍の科目は自由であった。嘉永年間初頭に医学所が設けられたが、教授が多忙のため中止され、1870年(明治3年)に再開している。嘉永6年には切偲楼という寄宿寮が設置され、初めの寮生は著察斎から藩費生3名と志願者6名であったが後に増加して定員50名となった。

開講当時の経費は約36石だったが、幕末には1,500石まで増えた。職員は家老の稽古大都合以下23人(後に24人)であった。元治元年(1864年)には庶民教育のために椎木郷学校が開校し、次いで美々津(現・日向市)、都農(現・都農町)、平田(現・川南町)、三納代(現・新富町)、福島(現・串間市)に6つの郷学が、さらに小池(現・川南町)、日置(現・新富町)と諸県郡三名(現・国富町)に3校が設立され、明倫堂はこれらを管轄した。 1869年(明治2年)には国学科が設けられ、玉鉾百首や神代正語、万葉集などが教えられた。1873年(明治6年)に廃止され、その後は高鍋島田学校を経て1887年には現在の宮崎県児湯郡高鍋町立高鍋東小学校となった。明倫堂の書庫は土蔵造で、現在は高鍋町立高鍋図書館構内に蔵書とともに改築されている。なお、明倫堂に関連して「高鍋で学者ぶるな」という諺が日向国内にあった。

平戸藩・維新館(1779年)
佐賀藩・弘道館(1781年)→現佐賀市立勧興小学校、佐賀県立佐賀西高等学校
久留米藩・学問所(1783年)→明善堂(1796年)→現福岡県立明善高等学校
福岡藩・修猷館および甘棠館(1784年)→現福岡県立修猷館高等学校
杵築藩・学習館(1785年)
人吉藩・習教館(1786年)
対馬藩・東明館(1792年)
島原藩・稽古館(1793年)
中津藩・進脩館(1796年)
柳河藩・伝習館(1824年)→現福岡県立伝習館高等学校
飫肥藩・振徳堂(1831年)
佐賀藩・医学館(1834年)→好生館(1858年)→県立好生館病院→公立佐賀病院(甲種医学校資格を失う)→現佐賀県立病院好生館
森藩・修身舎(1835年)
立石藩・無逸館(1837年) 立石藩木下氏は交代寄合の大身旗本で正確には藩ではない
臼杵藩・集成館(1839年)
日出藩・致道館(1858年)
佐賀藩・致遠館(1867年)→名称を借り受けて佐賀県立致遠館中学校・高等学校

沖縄

琉球王国・明倫堂(1718年)→名称を借り受けて久米崇聖会の集会所・図書館に

琉球の明倫堂
程順則・名護親方寵文の建議により康熙57年(1718年)に久米村内(現在の那覇市久米二丁目二番)の孔子廟境内に創建された。琉球における最初の正式な教育機関。明倫堂では官話のほか経書の講解、詩文や表奏文などの外交文書の作成教授など上級教育を行ない、それまで教育の場であった上天妃宮では北京官話や小学の素読など初等教育を行なうようになった。

明治期まで学校として機能するが、その後廃止され沖縄戦で焼失した。跡地には記念碑が建てられている。また戦後、久米村人の子孫が構成する久米崇聖会によって那覇市若狭に同名の施設が再建された。現在は会議室や図書室として利用されている。

琉球王国・国学(1798年)→現沖縄県立首里高等学校

江戸幕府・昌平坂学問所(1797年)
湯島聖堂(ゆしませいどう)は、元禄時代、5代将軍徳川綱吉によって建てられた本来は孔子廟である。東京都文京区湯島一丁目、JR中央線の御茶ノ水駅聖橋口からでて、聖橋を渡り右手の森の中にあり、「日本の学校教育発祥の地」の掲示がある。湯島天満宮(湯島天神)とともに、年間(特に受験シーズン)を通して合格祈願のために、参拝に来る受験生が訪れる。特に、合格祈願の鉛筆を買っていく受験生の姿が多く見受けられる。国の史跡に指定されている。

歴史
1690年(元禄3年)、林羅山が上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に建てた孔子廟「先聖殿」が移築され、将軍綱吉は先聖殿を「大成殿」と改称し、またそれに付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めた。林家の学問所も当地に移転している。
寛政異学の禁により、1797年(寛政9年)林家の私塾が、林家の手を離れて幕府の官立の昌平坂学問所となる。または「昌平黌」(しょうへいこう)ともいう。昌平とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって孔子の諸説、儒学を教える学校の名前とし、それはその地の地名にもなった。これ以降、聖堂とは、湯島聖堂の中でも大成殿のみをいうようになる。
ここには多くの人材が集まったが、維新政府に引き継がれた後、1871年(明治4年)に閉鎖される。ところで、教育・研究機関としての昌平坂学問所は幕府天文方の流れを組む開成所、種痘所の流れを組む医学所と併せて、後の東京大学へ連なる系譜上に載せることができる。また、敷地としての学問所の跡地は、そのほとんどが現在東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっている。明治以降、湯島聖堂の構内に文部省、国立博物館、師範学校、女子師範学校などが一時同居していたことがある。後にそれぞれ、国立博物館は上野に、師範学校は旧東京教育大学、現筑波大学に、女子師範学校はお茶の水女子大学(現在は文京区大塚であるが、当初は湯島一丁目の聖堂内にあったため、お茶の水という)へと姿を変えた。

湯島聖堂にある世界で一番高い孔子像大成院の建物は、当初朱塗りにして青緑に彩色されていたという。たびたび火災で焼失しているが、1799年(寛政11年)に水戸の孔子廟にならい改築された黒塗りの建物が明治以降も残っていた。

1922年には敷地が国の史跡に指定されたが、翌1923年(大正12年)の関東大震災で入徳門と水屋以外の建物が焼失し、現在の大成殿は伊東忠太設計、大林組施工により、1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。これは、寛政年間の旧制をもとに再建したものである。
現在、湯島聖堂構内に飾られている世界最大の孔子像は、1975年(昭和50年)に中華民国台北ライオンズクラブから寄贈されたものである。孔子像の他、孔子の高弟たち、四賢像(顔子-顔回、曾子、思子-子思、孟子)が安置されている。

史跡指定と文化財保護
公益上必要やむを得ない場合を除き、聖堂跡地の現状変更を許可しないものとして、1922年(大正11年)3月8日、敷地が国の史跡に指定された。指定名称は「湯島聖堂」である。1956年(昭和31年)4月18日には、文化財保護委員会より財団法人斯文会が史跡管理団体として管理を委託された。1986年(昭和61年)度より文化庁による建物の保存修理工事が行われ、1993年(平成5年)3月に竣工した。

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